2026. 09. 30 (水)

映画『暗殺者たち』と歴史の責任

映画『暗殺者たち』のメインポスター
映画『暗殺者たち』のメインポスター [写真=ハイ브メディアコープ]

1974年8月15日、ソウルの長秋洞国立劇場で光復節の祝賀式中に銃声が響き、肉英洙夫人が命を落とした。

半世紀が経過した今、その日の事件が再び論争の中心に立たされている。これは、23日に公開された許晋浩監督の映画『暗殺者たち』によるものである。

映画の中で登場人物たちが事件を追跡する過程で、当時の権力機関の介入の可能性を疑う場面があり、歴史の歪曲に関する論争が巻き起こった。国民の力は法的対応や監督の国政監査への出席を言及し、朴正煕大統領記念財団は上映中止を要求した。制作陣は特定の人物を事件の背後に位置づけたり、映画の中の仮説を歴史的事実として提示したわけではないと反論した。

まず、映画と歴史的事実は区別して考えるべきである。当時の捜査当局は文世光の犯行とその背後に関する捜査結果を発表した。その後、事件を巡ってさまざまな疑問や解釈が提起されてきたが、映画で言及される疑惑を確認された歴史的事実として受け入れるべきではない。制作陣もこれを確定した事実ではなく、登場人物たちが事件を追いかける中で投げかける仮説であると説明している。観客が見逃してはならない警戒である。

しかし、劇映画を歴史教科書のような基準で判断することはできない。実際の事件に虚構や想像力を加えることは、映画やドラマが長年用いてきた手法である。現代史を題材にした作品も、記録にない会話や人物の心理、事件の裏側を想像する。これを制限するなら、歴史を題材にした創作は存在意義を失う。

ただし、歴史的事実を題材にした想像には、それ相応の重い責任が伴う。記録にない会話や人物の内面を描くことと、事件の性質や因果関係に新たな仮説を持ち込むことは、観客に与える影響が異なる。実在の人物や実際の犠牲者が存在する現代史の悲劇であれば、慎重であるべき理由はさらに大きい。観客は劇場で見たシーンを実際の歴史と混同する可能性がある。確認されていない疑惑が強烈な映像で伝えられると、虚構と事実の境界が曖昧になる恐れがある。

制作陣も今回の論争を「映画は創作物である」という言葉だけで済ませてはならない。どのような記録や問題意識から出発し、どこまで映画的想像力を加えたのかを十分に説明する必要がある。歴史的事実を扱う自由がある以上、観客が事実と虚構の境界を見極められるように助けることも創作者の役割である。

論争があるからといって、政治権が処罰や上映中止を先に持ち出すのは早急である。劇映画だからといって法的責任から免れるわけではないが、その判断は具体的な表現や作品全体の文脈を考慮して司法的に判断されるべき問題である。政治権が先に歴史解釈の正誤を決定し、創作の許容範囲を制限しようとするなら、表現の自由を巡る別の論争を引き起こす可能性がある。

政治権には一貫した原則も必要である。自らに近い歴史的人物を扱った作品には表現の自由を狭く適用し、反対側を扱った作品には広く適用するなら、説得力を得ることは難しい。どの時代、どの人物を扱うにしても、創作の自由と歴史的責任には同じ基準が適用されるべきである。作品に問題があると考えるなら、具体的な事実や記録を挙げて反論すればよい。制作陣もそのような批判に誠実に応えるべきである。

映画一本が歴史の結論を代弁することはできない。政治権が映画一本の解釈を歴史の正解として判定してはならない。歴史的事実を巡る論争には、より正確な事実で、創作物の解釈にはより厳しい批評で応えるのが正しい。



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