2026. 08. 12 (水)

「プリウス」誕生を導いたトヨタ元社長の奥田碩さん死去… 93歳

지난 1997년 프리우스의 운전석에 앉아 있는 오쿠다 히로시 전 토요타 사장사진AFP연합뉴스
[写真=AFP・聯合ニュース(1997年、トヨタ「プリウス」の運転席に座っている奥田碩さん)]

日本の自動車産業をグローバル市場の頂点へと押し上げ、日本経団連の初代会長も務めたトヨタ自動車の元社長、奥田碩氏がこの世を去った。享年93。

1932年、三重県津市に生まれた奥田氏は、一橋大学商学部を卒業後、1955年にトヨタ自動車に入社した。1995年の社長就任を機に、それまでの内向きだった社風を180度転換し、世界最大の自動車メーカーへと飛躍させる強固な土台築き上げた立役者として知られる。

波乱のキャリアの滑り出しだった。入社後は左遷を思わせる辞令を受け、東南アジアで不遇の時代を過ごしたものの、のちの豊田章一郎会長に見出されて頭角を現した。1995年の社長就任時に掲げた「トヨタが変われば日本が変わる」という言葉は、まさに自らの決意表明であり、保守的だった企業の意思決定メカニズムにメスを入れる号砲となった。

最大の功績は、いわゆる「三河モンロー主義」と揶揄された内需偏重の殻を破り、海外へと打って出たことにある。北米、欧州、アジアに相次いで生産拠点を新設し、株主利益を重視する経営手法や先進的な環境技術の開発を猛烈な勢いで加速させた。

その圧倒的な突破力を象徴するのが、ハイブリッド車(HV)「プリウス」の開発だった。1990年代半ば、技術的な壁に直面していた現場は1998年から1999年頃の投入を想定していた。しかし、当時の奥田社長は「1997年中に出せ」と一喝した。同年12月に京都で開催される国連気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)を前に、エコカーの主導権を絶対に握るべきだという戦略的判断からだった。

1996年始の技術会議では「物理的に不可能だ」と猛反発が起きたが、トップの意志は揺るぎなかった。執念の末にトヨタはスケジュールを死守し、1997年12月、世界初となる量産型ハイブリッド乗用車の市販化にこぎつけた。

当然、道のりは険しかった。初期の試作車は完成後も49日間満足に走らないほどの難物だったという。それでもトヨタは1990年代初頭から温めてきた電動化技術を総動員し、インバーターやパワー半導体、モーターの内製化に成功して量産化の壁を突破した。

当時、欧州の自動車業界からは「あんな複雑なシステムが動くわけがない」「主流にはなり得ない」と冷ややかな視線が向けられた。だが、その翌年のデトロイトモーターショーでは、世界の競合メーカーが相次いでHVのコンセプトカーを引っ提げ、トヨタの後塵を拝する追走劇が始まったのである。

海外市場への攻勢も強烈だった。米欧亜でネットワークを急ピッチで広げ、販売台数を爆発的に伸ばした。米国の自動車業界では一挙手一投足が注視され、米日自動車交渉の舞台では、奥田氏をはじめとする日本側の幹部に対する盗聴疑惑が水面下で取り沙汰されるほどの存在感を放っていた。

その後、会長職を経て2002年には日経連と統合した新生・経団連の初代会長に就任。小泉純一郎首相との太いパイプを武器に、経済財政諮問会議の民間議員として日本の構造改革政策を力強くリードした。

「日本は周回遅れのランナーだ」と危機感をあらわにし、デフレからの脱却や構造改革の遅れを歯に衣着せぬ物言いで批判し続けた。経団連会長としての4年間で約200件に及ぶ政策提言を打ち出し、少子高齢化の到来を見据えた消費税率の引き上げや外国人労働者の受け入れといった、政治的に極めてデリケートな課題にも踏み込んだ。

調整と妥協を美徳としてきた従来の日本の財政界のリーダー像とは一線を画し、歯に衣着せぬ発言とスピード感溢れる実行力を武器にした「行動する経営者」。彼は、トヨタを地方都市の内需型企業からグローバルジャイアントへと変貌させ、当時の社内常識ではリスクの塊だったプリウスの早期市場投入を強行した原動力、そのものとして評価される。

 
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