
一方、韓国の教育論争は全く異なる風景である。地方教育財政交付金を巡り、政府と教育界、そして各自の利害関係を計算する保護者たちの視線が鋭く対立している。フランスの今回のデモが共に生きる教育の条件を問うものであれば、我々の交付金論争は財政の配分と確保に偏っている。政府も教育界も、その資金で子どもたちの生活をどう変えるのかをまず答えなければならない。主体の違いは視野の違いを生む。フランスが国家の責務と社会的正義を問うとき、我々はどれだけ削減し守るかという局所的な数字にのみ埋没している。
これは小さな利益を追求して大きな損失を招く典型的な本末転倒である。「小貪」は予算を削減または維持すること自体を成果とみなすことであり、「大失」は人が人らしく成長し、互いに信頼し合って生きる「社会性」と「公共性」の喪失である。目の前の帳簿に囚われ、予算という手段を教育の目的よりも優先させることで、何が重要で何が軽いのかが完全に逆転してしまった。
我々が守ろうとしている社会とは何か。単に人が集まって群れを成すだけで社会が成立するのか。同じ利益を追求して集まった集団は、利害関係が変われば砂の城のように崩れる。真の社会とは、他者の生活が自分の生活の条件であることを認識し、共に生きる責任を分かち合う相互関係の上にのみ成立する。他者を自分の成功の手段や乗り越えるべき障害物として扱うなら、人口は存在するかもしれないが、真の意味での「社会」は存在しない。
その出発点は人間の「自然性」である。人間は食べ、寝、休む必要があり、他者のケアなしには成長できない有機的存在である。それぞれの成長速度と限界を完全に認めることが人間性の基盤であり、受けたケアを他者に返す関係の中で初めて社会性が育まれる。このケアと関係性を家庭や個人にのみ負わせず、制度的に保障することが教育の公共性である。
しかし、我々は子どもたちの自然な成長を奪い、無限競争のスピード競争に追い込んでいる。睡眠を削って成績を上げ、友人を踏みつけて自分の価値を高めることを出世と呼び、強要してきた。2023年の西伊初事件の際、私は教師たちの集団行動が我々の社会を変える巨大な火種になると主張した。これは歪んだ構造を放置すれば教育関係全般が崩壊するという切実な警告であった。
現実は我々の予想をはるかに超えて厳しい展開を見せている。教育部の資料によれば、自殺で命を絶った小中高生は2023年に214人、2024年に221人、2025年には244人と年々増加している。その原因は複合的である。しかし、この増加を子どもたち個人の問題に帰することはできない。この悲劇的な指標の前で、教育競争を続けることが果たして大人たちの責任ある姿勢なのか。人と関係を消耗しながら推進する「持続可能な成長」は、その時点で巨大な矛盾である。自分の分だけを確保する間に、取り残された人々の不安と絶望は社会的亀裂を深め、最終的には憎悪と差別の政治的栄養源となる。
教育改革はこの愚かな計算を根本から覆すことから始めなければならない。交付金を守るのであれば、その財源で教師の時間を子どもたちに完全に戻し、危機にある学生を受け入れるための強固な関係網を作らなければならない。予算を再編成するのであれば、教育関係をどう回復するかから答えなければならない。今削減すべきは教育予算ではなく、子どもたちの息の根を止める無分別な競争と消耗的な行政万能主義である。
自分の欲望に世界を合わせる「エゴ」の生活から、世界の中で自分の責任を深く見出す「セルフ」の生活に転換しなければならない。フランスの学生・労働者たちの連帯と韓国の狭い交付金論争は、我々に厳しく問いかけている。競争の利益を果たしてどこまで手放せば人と社会を守れるのか。目先の利益のために社会を失うのであれば、それは決して得られるものではない。共に生きる社会を再構築すること、それが教育の存在理由である。
* この記事はAIによって翻訳されました。
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