人類の偉大な宗教や哲学の多くは、経典を残してきた。インドのヒンドゥー教には『ヴェーダ』と『ウパニシャッド』があり、仏教には『般若心経』『金剛経』『法華経』がある。キリスト教には聖書があり、イスラム教にはコーランがある。中国文明を動かしてきた精神的源流の一つである道教もまた、偉大な経典を残した。その中心にあるのが『道徳経』と『荘子』である。
『道徳経』が宇宙の原理を説いた書物だとすれば、『荘子』はその原理を人間の生の中でどう実現するかを示した書物である。老子が宇宙の哲学者であったなら、荘子は自由の哲学者だった。老子が秩序の根源を語ったなら、荘子はその秩序の中で自由に生きる人間の姿を描いた。中国思想史で「老荘思想」という言葉が使われるのはこのためである。老子と荘子は異なる時代を生きたが、「道」を軸に一つの精神世界を形づくった。
老子の『道徳経』は約五千字の短い書物である。しかし、その影響力はきわめて大きい。聖書に次いで多く翻訳された東洋古典と評されることもあり、世界中で読み継がれてきた。全八十一章で構成されている。八十一という数字も偶然とは見られない。東洋では九は完成を象徴し、八十一は九の九倍として、完全な宇宙秩序を意味する。興味深いことに、韓民族の『天符経』も八十一字で成り立っている。直接の関連は立証されていないが、宇宙の原理を凝縮して表現しようとする東洋思想の特徴は、二つの経典に共通して表れている。
『道徳経』は冒頭から読者を引き込む。
「道可道、非常道。名可名、非常名」
言葉で説明できる道は永遠の道ではなく、名づけることのできる名は永遠の名ではない、という意味である。老子は人間の言語の限界を語った。人間は宇宙を説明しようとする。しかし、説明する行為そのものが、すでに本質から離れているのかもしれない。この問題意識は、二千五百年前の思想でありながら、現代哲学や言語学にも通じる。
『道徳経』の核心は大きく三つに整理できる。第一は道である。道は宇宙の根源であり、万物を生み育てる原理である。老子は道を神とは呼ばなかった。しかし、すべての存在の根源と見た。「道生一、一生二、二生三、三生万物」という一節は、宇宙生成に対する東洋的な洞察を示している。
第二は徳である。徳は単なる道徳ではない。道を人生の中に実現する力である。道が宇宙の秩序なら、徳は人間の内側に現れる宇宙の秩序である。老子が、最も大きな徳は自らを誇示しないことだと説いた理由もここにある。
第三は無為である。無為は、しばしば何もしないことと誤解される。しかし、それは怠惰ではない。無理に作為しないことである。自然の流れに逆らわないことである。老子は、人間が過度な欲望によって世界を支配しようとすればするほど、かえって混乱は大きくなると見た。
『道徳経』で最もよく知られる言葉の一つが「上善若水」である。最高の善は水のようなものだ、という意味である。水は最も低い所へ流れる。しかし、最後には最も強い力を発揮する。岩を穿ち、川をつくり、生命を育てる。老子は水を通じて、謙虚さ、しなやかさ、そして真の強さを説いた。
『道徳経』が宇宙の原理を説いた哲学書であるなら、『荘子』は人間精神の自由を歌った文学作品に近い。実際、『荘子』は東洋最高の哲学文学と評価されている。
荘子を代表する物語が「胡蝶の夢」である。ある日、荘子は夢の中で蝶となり、自由に飛び回った。目覚めた後、彼はふと思う。「自分が夢の中で蝶になったのか、それとも蝶が夢の中で自分になっているのか」 この短い物語は、人間存在の根本に触れている。現実とは何か。夢とは何か。生と死とは何か。人間は本当に絶対的な真実を知っているのか。荘子は、世界は人間が考えるよりはるかに相対的だと見た。人間が絶対だと信じている多くのことは、実は見方の違いにすぎないと考えた。
もう一つの代表的な篇が「逍遥遊」である。そこには大鵬という巨大な鳥が登場する。大鵬は数千里の天空へ飛び上がる。荘子はこの物語を通じて、人間も小さな欲望や偏見を離れ、より大きな自由を求めるべきだと説いた。荘子の哲学は自由の哲学である。しかし、それは無責任な自由ではない。自然の秩序と調和する自由である。自分を空にし、世界と一つになる自由である。
荘子は、とくに善悪や正誤への執着を戒めた。大きいものと小さいもの、強いものと弱いもの、成功と失敗、尊いものと卑しいもの。これらはすべて相対的であり得ると見た。この考え方は後に仏教の空の思想と結びつき、東アジア精神文化の重要な柱となった。実際、禅仏教が中国に入った時、比較的容易に根を下ろすことができた背景の一つにも老荘思想があった。言葉を超え、直観によって真理を悟るという点で、荘子と禅仏教は驚くほど近い。
道教には『道徳経』と『荘子』のほかにも、『列子』『太平経』『黄庭経』『南華真経』など多様な経典がある。しかし、最も大きな影響を与えたのは、やはり『道徳経』と『荘子』である。
今日でも、世界の多くの指導者や企業家が老子と荘子を読む。複雑な時代ほど、単純さの知恵が必要になるからである。競争が激しいほど、均衡の価値が重要になるからである。変化が速いほど、本質を見抜く目が求められるからである。
結局、『道徳経』と『荘子』は人間に一つの問いを投げかける。
「あなたは何に縛られているのか」
金か。権力か。名誉か。
それとも恐れか。
荘子は語る。真の自由とは、世を捨てることではない。世に生きながら、世に縛られないことである。だからこそ、道教の経典は単なる宗教文献ではない。それは人間精神を解き放つ自由の宣言であり、自然と宇宙の中で人間がどう生きるべきかを問う深い哲学である。老子は道を語った。荘子は自由を語った。そして二千五百年を経た今日も、人類はなお、彼らの問いの前に立っている。
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