ようい どん!・・・経済戦争の始まりを宣言する日本の宣戦布告が差し迫った。2日、日本政府が韓国の国務会議のような閣議で、韓国をホワイトリストから除外する内容の輸出貿易管理令の改正案を審議・議決するのがまさに宣戦布告だ。
先月4日、「韓国に対する半導体材料などの輸出規制の強化する」と宣戦布告を予告した後、韓国は日本について知らなかったことを改めて知ることになる。日本の実体を再び見ている。「知日」ということだ。日本についてきちんと学んでこそ日本をよく知り(知日)、そうすることで日本をもっとよく利用(用日)し、日本に勝つ(克日)道に進むことができる。知日 - 用日 - 克日、この3段階の対日戦略は、国や企業だけでなく、韓国国民の一人一人にも同じく適用されるだろう。親日 - 反日の単純構図は古すぎる。争いに役立つどころか、内部分裂という癌細胞を培養するだけだ。
このような理由で日本を知るということは、日本が韓国に犯した蛮行を正確に把握することから出発する。恥ずかしい話だが、行政安全部傘下の公共機関に日帝強制動員被害者支援財団 (理事長 キム・ヨンドク)があることをよく知らなかった。しかも、この財団が運営する国立日帝強制動員歴史館(以下歴史館)が釜山にオープンしてからすでに4年が経ったことも初めて知った。
今月24日、歴史館を訪問するためにKTXに乗って釜山に向かった。電車の中で日帝強制動員に対する資料を探して読みながら、自分の無知を嘆いた。財団と歴史館の関係者らに会って話すときも、大韓民国国民の一人として「私たちはなぜこのような歴史を無視してきたのか」と思うと、申し訳なさに胸が痛んだ。
◆強制動員、無視されてきた民草の苦難
2015年12月にオープンした歴史館は、全国41の国立博物館だ。日本が行った強制動員の惨状を国民に知らせて正しい歴史意識を持つようにするため、事業費522億ウォンをかけて建立した。日帝強占期の強制動員労働力の22%ほどが慶尚道(キョンサンド)出身であり、また、動員された人々のほとんどが釜山港で涙の別れをしたため、釜山に作られた。釜山南区大淵洞(プサン・ナムク・テヨンドン)、世界で唯一UN記念墓地(国指定文化財)などがあるUN平和文化特区に位置している。
実は歴史館は忠南(チュンナム)天安独立記念館に建てようとしたが、「独立闘士たちと強制動員された人々は違う」という抗議があったという。有名政治家、政府の高官が一度も訪れてない理由も、強制動員された民草への歪曲された認識、低い評価と同じ脈絡だ。
時局が時局であるだけに、最近は観覧客が多少増えた。京畿道(キョンギド)新都市から妻と大学生の娘、中学生の息子と釜山に3泊4日の夏休みを過ごしに来た40代の父は、「釜山の休暇計画を組むときから歴史館に寄るつもりだった」と話した。一家は固い表情で1時間余りの間、強制動員の歴史を目と耳、全身で体験した。
◆マルチメディアで蘇らせた痛い記憶
歴史館の観覧は暗い「記憶のトンネル」を通過から始める。トンネルの壁に慰安婦、労働者など強制動員された人々が歩いていくアニメーションが広がり、その上15歳で北海道に連れて行かれた幼い労働者と悪名高い日本軍自殺特攻隊(神風)に動員された故イン・ジェウン氏の話が朗読される。
トンネルを通り過ぎると、強制徴用労働者の労務手帳が山積みされているボックスが見え、日本軍に連れていかれる息子と一緒に撮った最後の家族写真を見る。
展示物の中で最も目を引いたのは、ぼろぼろと引き裂かれた小さなノートだった。北海道の炭鉱労働者として働いた故カン・サムスル氏が書いた「北海道苦樂歌」だ。「朝鮮の土地の我が家は夕食を食べるのに/ここに私の身は数万距離の土の中で/昼夜を知らず、こんなに苦労をしている」。強制動員被害者が残した記録の中で唯一の文学作品、4・4調の歌詞で書いた歌だ。
古い日本の軍服も目を引く。小さくても、あまりにも小さかった。首筋のうぶげが残っているはずの15~16歳の男の子の顔が目に浮かんだ。
太平洋戦争当時の鉱山の様子、劣悪な合宿所を再現したセットは生々しかった。斜めな坑道で一日中腰を曲げて働くしかなかった姿、坑道が崩れた事故後に足首だけやっと出ているシーンまでそのまま再現した。
強制徴用で連れて行かれた彼らの肉声を昔の電話受話器を通じて聞くこともできる。朝鮮人7000人余りを乗せた日本海軍特設運送艦浮島の浮島丸が1945年8月24日、原因不明の爆発事故で沈没した事件に対する詳細な資料と説明もある。3つのフロアにわたって片方の壁面には様々な写真がぎっしりと展示されている。
歴史館の最上階に造成された追悼公園、5.7mの高さの追慕塔の上を5羽の鳥が飛んでいく。日本はもちろん、サハリン、南太平洋など遠い異国で故郷を懐う強制動員の被害者たちは、空を飛ぶ鳥になりたかったという。
◆過去を忘却、戦争の終わりは死だけ
日本の強制動員はすべて法によって行われた。1938年4月、国家総動員法の以降、国民徴用令(1939)、女子挺身勤労令(1944)、学徒勤労令(1944)など計15個の強制動員法令を制定し、1945年8月の敗戦まで韓半島(朝鮮半島)の人材と物資を総動員した。言葉だけが動員であって強制収奪といえる。
強制動員された朝鮮人は782万7355人(重複を含む)で、当時、韓半島に居住していた人口3人に1人の割合(1942年当時、人口2636万1401人)だ。子供や老人を除いた事実上、朝鮮民衆全員を強制的に動員したわけだ。強制入隊した朝鮮青年は20万人、韓半島と日本、占領地一帯に強制動員された労働者は755万4764人にのぼる。
日本が1931年に満州を侵略した後、韓国、中国、台湾など植民地の若い女性を日本軍が設置した慰安所に監禁、性奴隷を強要した蛮行には3万人から最大40万人が動員されたものと把握される。
米国の哲学者ジョージ・サンタヤーナ(1863〜1952)は、すさまじい第1、第2次世界大戦を思い浮かべながらこう語った。「過去を思い起こし得ない者は、過去を繰り返すように運命づけられている」(Those who can not remember the past are condemned to repeat it)
しかし、過去を記憶することに対する政府の支援は恥ずかしい水準だ。歴史館の1年間の遺物購入費はたったの1000万ウォン。日本語で書かれた炭鉱用語をハングルで書いたメモ用紙一枚も買えない。財団と歴史館の予算、職員の処遇など他のことは言うまでもない。
サンタヤーナはこのような名言も残した。「ただ死者のみが戦争のみが戦争の終わりを見たのである」(Only the dead have seen the end of war)
今、目の前に迫ってきた日本との戦争に、上記二つの名言を合わせるとぴったり当てはまる。 過去を思い起こし得ない者が繰り広げる戦争の終わりには、ただ死だけがあるのだ。
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