◆ 安倍晋三首相
安倍晋三首相は、戦後最年少、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣である。
1954年9月21日、外務大臣を務めた安倍晋太郎の二男として東京都で生まれた。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の岸信介首相、大叔父には佐藤栄作首相がいたため、安倍は「幼い頃から私には身近に政治がありました」と語ったが、幼い頃は野球選手や刑事になることに憧れていたという。
成蹊小学校、成蹊中学校、成蹊高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業。1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通い、1978年に南カリフォルニア大学に入学。政治学を専攻したが、1979年に中退した。
帰国後、神戸製鋼に入社し、ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。神戸製鋼に3年間勤務した後、1982年から当時外務大臣に就任していた父の下で秘書官等を務め、数々の各国首脳との会談に同席するなど父の後継者としての修行を行った。
1987年6月9日には当時森永製菓社長だった松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵氏と結婚式を挙げた。昭恵夫人は韓流スターや韓国ドラマが大好きで韓国語までも習得したほどであり、ファーストレディの親韓的な姿勢は、小泉政権時代に悪化した日韓関係の改善に繋がるものと期待された。安倍の首相就任後の訪韓の際にも同行し、その流暢な韓国語で好意的に迎えられた。
安倍氏は2006年9月26日に戦後最年少の52歳で自由民主党総裁、内閣総理大臣に就任し、2007年に参議院議員通常選挙での敗北と、体調の悪化を理由に退任した。しかし、2012年9月に自由民主党総裁に再就任、同年12月26日に内閣総理大臣に再就任した。
2006年の就任表明では、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させ、「美しい国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」などを擧げた。小泉前首相の靖国参拝問題などにより、途絶えていた中国、韓国への訪問を表明。2006年10月に中国・北京で胡錦濤国家主席と会談、翌日には、盧武鉉大統領と会談し、小泉政権下で冷却化していた日中と日韓関係の修復を目指した。
また北朝鮮が核実験を実施したことに対して「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」と非難声明を発するとともに、国連の制裁決議とは別に、より厳しい経済制裁措置を実施した。2007年4月には米国を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。
2007年7月29日に実施された参議院議員通常選挙では閣僚のスキャンダル問題など諸問題への対応が遅いと非難され、連立を組む公明党の議席を合わせても過半数を下回り大敗した。
選挙結果の大勢が判明した時点で安倍氏は総理続投を表明したが、参院選直後の自民党総務会において党内からも退陣を促す声が出た。8月から、胃と腸に痛みを感じ、食欲の衰えを感じるようになるなど体調が悪化した。9月12日、退陣を表明する記者会見を急遽行い、退陣の理由についてはテロとの戦いを継続する上では自ら辞任するべきと判断したとしたと説明した。26日の辞職まで第1次安倍内閣の在職日数は1年余りとなる366日であった。
安倍氏は2012年9月12日、自由民主党総裁選挙への出馬を表明。9月26日に行われた総裁選挙で総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再選されるのは自民党史上初だった。
2012年12月16日に行われた衆議院議員総選挙では、自民党が294議席を獲得して圧勝し、民主党を押え政権与党に復帰した。同年12月26日に第96代内閣総理大臣に選出され、第2次安倍内閣が発足。1度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田茂以来2人目となった。
安倍首相は、デフレ経済を克服するためにインフレターゲットを設定した上で、日本銀行法改正も視野に入れた大胆な金融緩和措置を講じ、多年に渡って続くデフレからの脱却に強い意欲を示し、大胆な金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢と称した経済対策は、マスコミ等からアベノミクスと称された。
内閣発足からちょうど1年となる2013年12月26日、安倍首相は首相在任中初めて靖国神社に参拝し、直後に「恒久平和への誓い」と題した「首相談話」を発表した。
参拝後、記者団に対して「御霊安らかなれと、手を合わせて参った。この1年の安倍政権の歩みをご報告し、二度と再び戦争の惨禍によって人々が苦しむことのない時代をつくるとの誓い、決意をお伝えするためにこの日を選んだ。戦場で散った英霊のご冥福をお祈りすることは世界共通のリーダーの姿勢だ。中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは毛頭ない。中韓両国首脳に直接説明したい」と語った。
この参拝について在日本米国大使館は「日本は大切な同盟国であり友好国であるが、近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに失望している」との声明を出した。中国と韓国の駐日大使も安倍首相の参拝に抗議した。
◆ 李克強首相·
安徽省定遠県生まれ。1974年3月から1978年3月にかけて安徽省鳳陽県大廟公社で労働に従事。この間の1976年5月、中国共産党に入党。同年11月より、大廟公社大廟生産大隊党支部書記を務める。
文化大革命が終息した1970年代末に全国普通高等学校招生入学考試が復活すると鳳陽県の首席(高考状元)となり、1978年3月に北京大学法律系(法学部)に入学する。在学中は全校学生会責任者を務めた。
1982年2月に大学を卒業し、法学学士号を修得。同月から翌年12月にかけて、北京大学共青団委員会書記・共青団中央常務委員・共青団中央学校部部長兼全国学校連合会秘書長を務めた。
1983年12月、共青団中央書記処候補書記となり、1985年11月に共青団中央書記処書記に就任。李が共青団中央書記処入りしたこの時期、胡錦濤もまた先任の書記として在籍しており、1984年から1985年にかけて共青団中央書記処第一書記の地位にあった。
李克強は1986年6月、全国青年連合会副主席を兼任。1988年9月から1994年12月にかけて、在職のまま北京大学経済学院経済学専攻大学院に学び、経済学修士号・博士号を修得する。この間、1991年9月から11月にかけて中国共産党中央党校でも学んだ。
1993年3月には共青団中央書記処第一書記に昇格し、中国青年政治学院院長を兼ねた。同月、安徽省代表として第8期全国人民代表大会常務委員会委員・全人代常務委員会代表資格審査委員会委員に選出される。その後、第9期(1998年-2003年)、第10期(2003年-2008年)、第11期(2008年-)の全人代代表に選出された。
1997年9月の第15回党大会で党中央委員に選出された李克強は、1998年6月、共青団中央書記処第一書記兼中国青年政治学院院長を退き、党務に転じて河南省に赴任、河南省党委員会副書記に就任した。
翌月には河南省副省長を兼任。その後、省長代理を経て、1999年2月には正式に河南省省長兼省党委副書記・省政府党組書記に就任した。2002年11月、第16回党大会で中央委員に再選。翌月、河南省党委書記に就任。
2003年1月、兼任していた河南省省長を退任し、河南省人民代表大会常務委員会主任を新たに兼務する。次いで2004年12月、遼寧省党委書記に転じた。これに伴い、翌年1月に河南省人代常務委員会主任を辞任した。2005年2月27日、遼寧省人民代表大会常務委員会主任を兼務した。
2007年10月に開かれた第17回党大会で中央委員に再選。10月22日の第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)で二段飛びの政治局常務委員に選出された。同様に政治局常務委員となった習近平氏とともに第18期以降を支える第5世代の核心と目されているが、胡錦濤前主席が江沢民時代に就いていた中央書記処常務書記には習近平氏が任命され、李克強は国務院党組副書記・中央財経領導小組副組長として温家宝前総理の補佐となった。2008年3月17日、第11期全国人民代表大会第1回会議において国務院常務副総理に任命された。
2012年11月15日に開かれた第18期1中全会で政治局常務委員に再選され、党内序列第2位となる。同月21日、李克強は北京の中南海で開催された改革開放に関する座談会を主宰、「人民がさらに良い生活を送れるようにするためには、改革開放が必要だ」と述べ、多くの改革を進めれば既得権益層の打破などにつながると主張し、改革を進める姿勢を示した。
2013年3月15日、李克強は第12期全国人民代表大会第1回会議において国務院総理(中国の首相)に選出され、翌日には閣僚の任命が行われ、李克強内閣が発足した。
◆ 朴槿惠大統領
韓国の第5代-第9代大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)と陸英修(ユク・ヨンス)の長女として、慶尚北道大邱市で産まれた。
キリスト教系の聖心女子中学校・聖心高校を卒業後に西江大学校電子工学科に進学した。大学では中国語も専攻。首席で卒業後に、フランスのグルノーブル大学に留学した。留学中の1974年8月15日に文世光事件が発生し、母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国、その後は父のファーストレディー役を務めた。
1979年に朴正煕暗殺事件で父は金載圭(キム・ジェギュ)KCIA長官に暗殺された。父の死亡を耳にした際の第一声は、混乱に乗じて朝鮮人民軍が侵攻することを懸念した「休戦線は大丈夫か」だった。
ガールスカウト団名誉総裁、嶺南大学校理事長、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選挙(大邱広域市達城郡)に当選、政界入りし、ハンナラ党副総裁など党要職を歴任した。
2002年2月にハンナラ党を離党した後、5月12日に平壌を訪問、金正日と会見した。同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を5月17日に結成したが、11月にハンナラ党に復帰した。
2004年3月23日に、1965年に野党民衆党の代表最高委員(党首)に朴順天(パク・スンチョン)が就任して以来、韓国では39年ぶりの女性党首としてハンナラ党の代表に就任した。2004年4月の総選挙でも達城郡の選挙区から当選した。この選挙では、大統領弾劾を可決したハンナラ党に対する国民の批判が集まり惨敗が予想されていたが、朴槿恵の知名度と人気で惜敗に食い止め、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
2005年10月5日、ハンナラ党代表として韓国軍のヘリコプターを用いて「独島」へ上陸し、中国を訪問して胡錦濤国家主席と会見した。2006年5月17日には日本を訪問し、小泉純一郎首相と会談した。
2006年5月20日午後、第4回全国同時地方選挙の支援遊説中に、暴漢にカッターナイフで切り付けられ、右耳下から顎にかけて10センチの傷を負い60針縫う手術を受けた。襲撃事件による同情票や盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の経済失政に対する批判などから、2006年5月31日に行われた統一地方選挙ではハンナラ党を大勝利に導いた。
この結果、同じハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)に次ぐ2007年の韓国次期大統領選の有力候補としての地位を固めたが、2007年8月20日に、党大会で行われた大統領候補党内予備選挙で李明博に敗れた。
2010年12月27日、政策研究のためのシンクタンクとなる国家未来研究院を発足させ、2012年に予定されている大統領選挙に向けて本格始動を開始し、セヌリ党の大統領候補に選出。同年12月19日に行われた大統領選挙では、革新派である民主統合党候補の文在寅(ムン・ジェイン)との事実上の一騎打ちとなり接戦の末に当選、2013年2月25日に第18代大統領に就任した。
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